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鎌倉 史跡碑・旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

鎌倉 史跡碑・旧跡碑(鎌倉町青年団石碑) 鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)は、大正時代から昭和初期にかけて鎌倉町青年団(または鎌倉市青年会)が設置した石碑です。鎌倉市内に80ヶ所弱、設置されていると言われていした。

設置されている場所が個人宅内にある場合もあり、全てが見られる訳ではありません。また無くなってしまった石碑もあります。

そのため現在は73ヶ所あり、うち3ヶ所は個人宅や立入禁止になっているところにあり、実際に見られる数は70ヶ所となっています。

地図上から鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)を探す

Google Map上に石碑(旧石碑)を配置しました。マークをタップ(クリック)すると、詳細が出て、個別詳細記事へと移動します。

建立年別に鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)を探す

鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)が建てられた順に並べています。古い順になっているので、新しいものほど下になります。

なお1921年(大正10年)までは鎌倉町青年会、1922年(大正11年)以降は、鎌倉町青年団が建立しています。

旧跡碑 所在地 建立年 建立年
大蔵幕府舊蹟 雪ノ下 1917年 大正6年3月
稲村崎 稲村ガ崎 1917年 大正6年3月
俊基朝臣墓所 梶原 1917年 大正6年3月
問注所舊蹟 御成町 1917年 大正6年3月
勝長寿院 雪ノ下 1917年 大正6年3月
若宮大路幕府舊蹟 雪ノ下 1918年 大正7年3月
東勝寺舊蹟 小町 1918年 大正7年3月
北條執權邸舊蹟 小町 1918年 大正7年3月
段葛 小町 1918年 大正7年3月
二十五坊舊蹟 雪ノ下 1918年 大正7年3月
足利公方邸舊蹟 浄明寺 1920年 大正9年3月
永福寺舊蹟 二階堂 1920年 大正9年3月
阿佛邸舊蹟 極楽寺 1920年 大正9年3月
宇津宮辻幕府舊蹟 小町 1921年 大正10年3月
太田道灌邸舊蹟 扇ガ谷 1921年 大正10年3月
青砥藤綱邸舊蹟 浄明寺 1921年 大正10年3月
文覚上人屋敷迹碑 雪ノ下 1922年 大正11年3月
畠山重保邸阯 由比ガ浜 1922年 大正11年3月
扇谷上杉管領屋敷迹 扇ガ谷 1922年 大正11年3月
畠山重忠邸址 雪ノ下 1923年 大正12年3月
稲瀬川 長谷 1923年 大正12年3月
比企能員邸阯 大町 1923年 大正12年3月
法華堂跡 西御門 1924年 大正13年3月
和賀江島 材木座 1924年 大正13年3月
土佐坊昌俊邸址 雪ノ下 1925年 大正14年3月
足達盛長邸阯碑 長谷 1925年 大正14年3月
大江廣元邸址 十二所 1925年 大正14年3月
西御門 西御門 1926年 大正15年3月
東御門 西御門 1926年 大正15年3月
星月井 坂ノ下 1927年 昭和2年3月
大慈寺跡 十二所 1928年 昭和3年3月
元八幡 材木座 1928年 昭和3年3月
源氏山 扇ガ谷 1928年 昭和3年3月
荏柄天神 二階堂 1929年 昭和4年3月
乱橋 材木座 1929年 昭和4年3月
藤谷黄門遺蹟 扇ガ谷 1929年 昭和4年3月
塔之辻 笹目町 1929年 昭和4年3月
今宮 雪ノ下 1929年 昭和4年12月
萬葉集研究遺跡 大町 1930年 昭和5年2月
関取場跡 雪ノ下 1931年 昭和6年3月
太平寺跡 西御門 1931年 昭和6年3月
十一人塚 稲村ガ崎 1931年 昭和6年3月
長楽寺跡 長谷 1931年 昭和6年3月
理智光寺址 二階堂 1932年 昭和7年3月
夷堂橋 小町 1932年 昭和7年3月
相馬次郎師常之墓 扇ガ谷 1932年 昭和7年3月
辨谷 材木座 1932年 昭和7年3月
極楽寺坂 坂ノ下 1932年 昭和7年3月
佐竹屋敷跡 大町 1932年 昭和7年3月
柳原 雪ノ下 1934年 昭和9年3月
蓮華寺址 佐助 1934年 昭和9年3月
聖福寺跡 稲村ガ崎 1934年 昭和9年3月
主馬盛久之頚坐 長谷 1935年 昭和10年3月
上杉朝宗及氏憲邸阯 浄明寺 1935年 昭和10年3月
日蓮聖人辻説法之阯 小町 1936年 昭和11年3月
藤原仲能之墓 梶原 1936年 昭和11年3月
町屋址 大町 1936年 昭和11年3月
源平池 雪ノ下 1937年 昭和12年3月
歌之橋 二階堂 1937年 昭和12年3月
下馬 由比ガ浜 1937年 昭和12年3月
青砥藤綱旧跡 小町 1938年 昭和13年3月
筋替橋 雪ノ下 1939年 昭和14年3月
日蓮上人草庵阯 大町 1939年 昭和14年3月
染屋太郎大夫時忠邸址 長谷 1939年 昭和14年3月
化粧坂 扇ガ谷 1940年 昭和15年3月
松谷寺及佐介文庫阯 佐助 1940年 昭和15年3月
宿谷光則屋敷跡 長谷 1940年 昭和15年3月
鐵井 雪ノ下 1941年 昭和16年3月
朝夷奈切通 十二所 1941年 昭和16年3月
義経宿陣之趾 腰越 1941年 昭和16年3月
番外:高井真哉君之碑 大町 1925年 大正14年9月

番外の「高井真哉君之碑」は鎌倉町青年団小町支部によって建てられた石碑ですが、史跡碑では無いため、番外としています。

字面で鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)を探す

鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)は同じ書体のものもあれば独特な書体のものもあります。字面から探せるように石碑名の部分を一覧化しています。

鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

高井真哉君之碑

高井真哉君之碑は、大正時代に鎌倉町青年団小町支部によって建てられた石碑です。他の鎌倉町青年団(青年会)が建てたものは史跡に関する石碑ですが、この石碑のみ史跡とは異なることが記されています。非常にわかりにくい場所にある石碑です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

勝長寿院旧蹟碑(勝長壽院舊蹟碑)

勝長壽院舊蹟碑(勝長寿院旧蹟碑)は、大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鎌倉市雪ノ下にありますが、地元の人しか通らないような場所にあります。勝長寿院は、源頼朝が建立した寺院であり、鎌倉時代には鎌倉の三大寺社の1つとされていました。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

佐竹屋敷跡碑

佐竹屋敷跡碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。大宝寺の入口に割と存在感があるように建っています。ここで言う佐竹氏は、佐竹秀義を最初とする鎌倉時代の武将の一族を指します。大宝寺には佐竹氏ゆかりの多福稲荷があります。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

聖福寺阯碑

聖福寺阯碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。七里ヶ浜の住宅街の最奥、正福寺公園の東側の入口に建っています。聖福寺は、鎌倉幕府5代執権・北条時頼が創建したと伝わるお寺ですが、いつ廃寺となったのか詳しいことはわかっていません。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

染屋太郎大夫時忠邸址碑(染谷太郎大夫時忠邸跡碑)

染屋太郎大夫時忠邸址碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。由比ヶ浜駅から鎌倉文学館に行く途中にひっそりと建っています。染屋時忠は、鎌倉幕府より前の時代、8世紀前半にいたとされる人物で、鎌倉にはいろいろな伝説が残っています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

義経宿陣之趾碑(義経宿陣之阯碑)

義経宿陣之趾碑(義経宿陣之阯碑)は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。腰越の満福寺・山門前に建っています。源義経が源頼朝に鎌倉入りを許されず満福寺に滞在し、腰越状を書いた場所とされている跡地として紹介しています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

日蓮上人草庵阯碑

日蓮上人草庵阯碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鎌倉市大町にある安国論寺の入口、石垣の上に建っています。日蓮上人とは、鎌倉時代の仏教の僧であり日蓮宗の宗祖となった方です。鎌倉市内には日蓮に因んだ史跡がいくつかあり、説明のための石碑です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

長楽寺跡碑

長楽寺跡碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鎌倉市長谷にある鎌倉文学館の受付の近くにひっそりと建っています。長楽寺は、嘉禄元年(1225年)に源頼朝の菩提を弔うために北条政子によって建立された寺院であり、現在の安養院の元となったお寺と言われています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

宿谷光則屋敷跡碑

宿谷光則屋敷跡碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。長谷の光則寺の山門前に建っています。宿谷光則は、光則寺を創建した人物であり、屋敷を光則寺に変更したため、光則寺そのものが、宿谷光則の屋敷跡となります。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

星月井碑

星月井碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。星月井は鎌倉十井の1つで、極楽寺坂切通の入口とも言える場所にあり、その井戸の由緒が碑文に刻まれています。極楽寺駅から長谷駅に向かう坂道にあり、6月の紫陽花の時期や紅葉の時期には多くの人が訪れる場所です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

極楽寺坂碑

極楽寺坂碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鎌倉七口の1つで極楽寺坂切通、成就院の東結界側の入口近くにあります。極楽寺駅から長谷駅に向かう坂道が極楽寺坂であり、6月の紫陽花の時期や紅葉の時期には多くの人が訪れる場所です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

萬葉集研究遺跡碑(万葉集研究遺跡碑)

萬葉集研究遺跡碑(万葉集研究遺跡 )は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。妙本寺の境内、祖師堂の近くに建っています。天台宗の学問僧である仙覚が万葉集研究を行った新釈迦堂があったとされる場所です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

比企能員邸阯碑

比企能員邸阯碑は、大正時代に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。妙本寺の総門の右脇に建っています。比企能員は、鎌倉殿の13人の1人でしたが、北条時政との対立により処刑され比企一族も滅ぶことになりました。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

塔之辻碑

塔之辻碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。由比ヶ浜大通り沿いの寸松堂の敷地内にひっそりと建っています。塔之辻と呼ばれるところは鎌倉市内にいくつかありますが、塔之辻碑には悲しい伝承が刻まれています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

松谷寺及佐介文庫阯碑

松谷寺及佐介文庫阯碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。市役所通り、御成隧道と新佐助隧道の間、新佐助隧道よりに建っています。佐介文庫は、金沢文庫と同じ頃に作られたものと想像されています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

町屋址碑

町屋址碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。大町四ツ角の交差点から少し南下した小町大路沿い、逆川のすぐ近くに建っています。町屋(まちや)とは、民家の一種で町人の住む店舗併設の昔の都市型住宅のことです。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

辨谷碑(弁谷碑)

辨谷碑(弁谷碑)は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。材木座の中でも観光客が通ることがほぼ無い場所に建っています。辨谷は、元々はこの辺りの地名であり、北条高時が創建した金剛山崇寿寺があったとされています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

問注所舊蹟碑(問注所旧跡碑)

問注所舊蹟碑(問注所旧跡碑)は、大正時代に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鎌倉市御成小学校前のT字路交差点の角に建っています。問注所とは、今で言えば裁判所に近いもので、鎌倉時代に設置された訴訟事務を所轄する機関のことです。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

相馬次郎師常之墓碑

相馬次郎師常之墓碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。寿福寺踏切から亀ヶ谷坂切通に向かう途中の脇道の奥、少しわかりにくいところに建っています。相馬師常は、鎌倉時代の武将であり相馬氏の初代当主とされています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

蓮華寺址碑(蓮華寺跡碑)

蓮華寺址碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。市役所通りを佐助方面に進み、鎌倉税務署の前、佐助保育園の脇に建っています。蓮華寺は、材木座にある光明寺の前身となったと言われるお寺で北条家ゆかりのお寺です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

和賀江島碑

和賀江島碑は、大正時代に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。材木座海岸の東端、海中の岩の上に建つ石碑ですが、干潮時には歩いて石碑の前まで行くことが出来ます。和賀江島は現存する築港遺跡としては日本最古となっています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

化粧坂碑(假粧坂碑)

化粧坂碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。源氏山公園から化粧坂を降りて向かうにせよ、海藏寺方面から向かうにせよ、行くのにかなり面倒な場所に建っています。化粧坂は、化粧坂切通とも言われ鎌倉七口の1つにもなっています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

俊基朝臣墓所碑

俊基朝臣墓所碑は、大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。源氏山公園の一角にある日野俊基墓に建てられています。日野俊基は、後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍しましたが捕らえられ、ここ葛原ケ岡(現・源氏山公園)で処刑されました。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

藤原仲能之墓碑

藤原仲能之墓碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鎌倉市扇ガ谷・梶原にかかる源氏山公園の北側・葛原岡神社のすぐ近くに建っています。藤原仲能は鎌倉幕府の重臣で、海藏時を創建したと伝わっています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

青砥藤綱邸舊蹟碑(青砥藤綱邸旧蹟碑)

青砥藤綱邸舊蹟碑(青砥藤綱邸旧蹟碑)は、大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鎌倉市浄明寺の金沢街道に沿った滑川の「青砥橋」から少し入ったところに建っています。青砥藤綱は、鎌倉時代後期の武士で、いろいろな伝承が残っています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

扇谷上杉管領屋敷迹碑(扇谷上杉管領屋敷跡碑)

扇谷上杉管領屋敷迹碑(扇谷上杉管領屋敷跡碑)は、大正時代に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鎌倉市扇ガ谷の寿福寺踏切のすぐ近くに建っています。上杉氏の扇ガ谷にあった屋敷跡を伝える石碑です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

藤谷黄門遺蹟碑(藤谷黄門遺跡碑)

藤谷黄門遺蹟碑(藤谷黄門遺跡碑)は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鎌倉市扇ガ谷にある浄光明寺の参道入口に建っています。藤谷黄門とは、阿仏尼の子である冷泉 為相の別称です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

阿佛邸舊蹟碑(阿仏邸旧蹟碑)

阿佛邸舊蹟碑(阿仏邸旧蹟碑)は、大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。江ノ電の極楽寺駅と稲村ヶ崎駅の間、極楽寺よりの踏切の横に建っています。阿仏は阿仏尼のことで13世紀・鎌倉時代中期の女流歌人であり尼です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

十一人塚碑

十一人塚碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。江ノ電「稲村ケ崎駅」からほど近い場所に建っています。十一人塚は、鎌倉攻めの新田義貞軍の浜手の大将・大館宗氏ら11名が討死したため11人を埋葬し十一面観音堂を建てて霊を弔った場所とされています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

夷堂橋碑

夷堂橋碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。本覚寺の山門のすぐ脇、夷堂橋の小町側に建っています。夷堂橋は鎌倉十橋の1つで、滑川の場所によって変わる名称を説明している石碑です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

太田道灌邸舊蹟碑

太田道灌邸舊蹟碑は、大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鎌倉市扇ガ谷にある英勝寺の境内の中、横須賀線のすぐ前に建っています。太田道灌は、室町時代後期に関東地方で活躍した武将であり、江戸城を築城したことで有名です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

源氏山碑

源氏山碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鎌倉五山の第三位にもなっている寿福寺の入口近くにひっそりと建っているため、見逃してしまいそうな石碑です。碑に刻まれた文字は、源氏までは読めるものの山が読めないため悩むかもしれません。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

下馬碑

下馬碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鎌倉駅から由比ガ浜に向かう若宮大路の横須賀線を超えた少し先のガソリンスタンドの脇に建っています。ガソリンスタンドが目立ってしまい気付かずに通り過ぎる人も多い石碑です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

乱橋碑(亂橋碑)

乱橋碑(亂橋碑)は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。材木座を通る小町大路、五所神社近くに建っています。昔の鎌倉を代表する鎌倉十橋の1つ「乱橋」の説明が刻まれています。乱橋そのものは橋標が残る程度です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

元八幡碑

元八幡碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。由比若宮・元鶴岡八幡宮の境内に建っています。由緒書や看板の後ろに建っており、更に文字数が多いため非常に読みにくくなってしまっているのが残念な石碑です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

稲村崎碑

稲村崎碑は、大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。かながわの景勝50選にも選ばれている稲村ヶ崎にあり、晴れていれば江ノ島や富士山が一望出来る絶景スポットに建っています。史跡にもなっており周りにいろいろな石碑・レリーフが多くあります。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

稲瀬川碑

稲瀬川碑は、大正時代に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。国道134号線沿い、江ノ電「長谷駅」に近い由比ガ浜沿いに建っています。稲瀬川は、鎌倉時代には鎌倉の西の境界線とされていた川ですが、現在は多くが暗渠になっています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

大江廣元邸址碑(大江広元邸跡碑)

大江廣元邸址碑(大江広元邸跡碑)は、大正時代に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。ミニストップのある明石橋から路地に入ったところに建っています。大江広元は、「鎌倉殿の13人」の1人であり、鎌倉幕府の政所初代別当を務めた人物です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

上杉朝宗及氏憲邸阯碑

上杉朝宗及氏憲邸阯碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。杉本寺近くのT字路から奥に入ったところに建っています。上杉朝宗は、1400年前後の武将・守護大名であり、上杉氏憲はその子です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

大慈寺跡碑

大慈寺跡碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。金沢街道の明石橋付近から少し奥に入ったところに建っています。大慈寺は、源実朝が建立したと言われるお寺ですが、建立はわかっているもののいつ廃寺となったのかわかっていません。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

二十五坊舊蹟碑(二十五坊旧蹟碑)

二十五坊舊蹟碑(二十五坊旧蹟碑)は、大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鶴岡八幡宮から北鎌倉方面へと向かう途中にある鶴岡文庫近くに建っています。鶴岡八幡宮に関連する施設があった場所を示す石碑です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

今宮碑

今宮碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鶴岡八幡宮の今宮の境内に建っています。今宮は鶴岡八幡宮の末社で、承久の乱で破れた後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇 の三天皇が祀られています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

朝夷奈切通碑

朝夷奈切通碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。朝夷奈切通の鎌倉市十二所側入口の三郎の滝(朝比奈の滝)の脇に建っています。朝夷奈切通は鎌倉時代に作られた峠道であり国指定史跡にもなっています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

永福寺舊蹟碑(永福寺旧跡碑)

永福寺舊蹟碑(永福寺旧跡碑)は、大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。永福寺跡の東南側の入口に建っています。永福寺はかつて鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つでしたが15世紀初頭に廃絶し、2007年以降に基壇(基礎)が復元され、観光地となっています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

太平寺跡碑

太平寺跡碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。西御門の来迎寺の入口の脇、八雲神社の前に建っています。太平寺は、かつては鎌倉尼五山の筆頭でしたが、16世紀に廃寺となり、その跡に石碑が建てられました。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

主馬盛久之頸座碑(主馬盛久之頚坐碑)

主馬盛久之頸座碑(主馬盛久之頚坐碑)は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。由比ヶ浜駅からほど近い、由比ヶ浜大通り沿いに庚申塚と一緒に建っています。面白い逸話が刻まれた碑です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

足達盛長邸阯碑(安達盛長邸阯碑)

足達盛長邸阯碑(安達盛長邸阯碑)は、大正時代に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。甘縄神明宮の境内に入ってすぐ右側に建てられています。一般的には安達と書きますが碑には足達と記されています。安達盛長は、源頼朝の側近であり、NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の1人です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

畠山重保邸阯碑

畠山重保邸阯碑は、大正時代に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鶴岡八幡宮の一ノ鳥居のすぐ横に石造宝篋印塔(畠山重保墓塔)と一緒に建っています。畠山 重保は鎌倉時代初期の武将であり、父は畠山重忠です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

段葛碑

段葛碑は、大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鶴岡八幡宮の段葛にある「二の鳥居」の後ろにあるため、気づかずに通り過ぎてしまう人もいますが、現在の段葛の中ではかなり歴史が古いものの1つであり、是非足を止めて見て欲しい石碑です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

日蓮聖人辻説法之阯碑

日蓮聖人辻説法之阯碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。宝戒寺・本覚寺・浄妙寺といった鎌倉江の島七福神のお寺が集まる通りである、小町大路沿いにいろいろな石碑と一緒になった「日蓮上人辻説法跡」の中に建っています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

北條執權邸舊蹟碑(北条執権邸旧跡碑)

北條執權邸舊蹟碑(北条執権邸旧跡碑)は、大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。宝戒寺の境内に入ったところにひっそりと建っています。鎌倉幕府の執権を握っていた北条家の最後の邸宅となった場所として石碑が建てられています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

歌之橋碑

歌之橋碑(歌の橋碑)は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。金沢街道沿い、杉本寺から鎌倉駅方面に少し進んだところにあります。渋川兼守という武士が和歌を詠んだことに関連して作られた橋のため「歌之橋(歌の橋)」とされています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

文覚上人屋敷迹碑(文覚上人屋敷跡碑)

文覚上人屋敷迹碑(文覚上人屋敷跡碑)は、大正時代に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。金沢街道から少し奥に入った滑川の「大御堂橋」の近くに建っています。文覚上人とは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

東勝寺舊蹟碑(東勝寺旧跡碑)

東勝寺舊蹟碑(東勝寺旧跡碑)は、大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。国指定史跡「東勝寺跡」の奥にあり、すぐ近くには「北条高時腹切りやぐら」があって昼間でも少し怖さを感じる場所です。無闇におすすめ出来る場所ではありません。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

靑砥藤綱舊蹟碑(青砥藤綱旧跡碑)

靑砥藤綱舊蹟碑(青砥藤綱旧跡碑)は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。東勝寺橋の欄干のすぐ近く、Vin茶家 OMOTEというワイン茶屋の前に建っています。東勝寺橋の見学と合わせて見て欲しい石碑です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

源平池碑

源平池碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鶴岡八幡宮の三の鳥居の左側(西側)にある茶寮「風の杜」の入口にひっそりと建てられています。鶴岡八幡宮に参拝した時に合わせて見て欲しい石碑です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

土佐坊昌俊邸址碑

土佐坊昌俊邸址碑は、大正時代に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。金沢街道に入るちょっと手前の小町大路の住宅の入口にひっそりと建っています。土佐坊 昌俊は、源頼朝に臣従した僧であり武将です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

柳原碑

柳原碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鶴岡八幡宮の柳原神池の橋のすぐ近くに建てられています。鶴岡八幡宮へ参拝に訪れた時に柳原神池と合わせて見て欲しい石碑です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

鉄井碑(鐵井碑)

鉄井碑(鐵井碑)は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鎌倉駅から鶴岡八幡宮の西端を結ぶ小町通りの鶴岡八幡宮側のT字路にあります。鉄の井(鉄井)は、江戸時代に泉質の良いとされた井戸が10あり、その内の1つです。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

荏柄天神碑

荏柄天神碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。荏柄天神社の一の鳥居と重なり合う松の木との間に木々で少し見えにくくなっていますが、建てられています。荏柄天神社の由緒に関することが記されています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

若宮大路幕府舊蹟(若宮大路幕府旧跡)碑

若宮大路幕府舊蹟碑は、大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。若宮大路と小町大路の間の細い路地にひっそりと建てられています。若宮大路幕府は、鎌倉幕府の中心となった場所です。最初は大蔵幕府、続いて宇都宮辻幕府、最後に若宮大路幕府となっています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

筋替橋碑

筋替橋碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鶴岡八幡宮を超えた少し先の金沢街道沿いにあります。筋替橋は、滑川に注ぐ小さな川にかかっていた橋で現在は暗渠(あんきょ・水面が見えないようになっていること)となっています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

関取場跡碑

関取場跡碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。金沢街道の岐れ道近くにあります。関取場は、いわゆる関所であり通行税の徴収場所のことです。また鎌倉時代ではなく、室町時代末期に作られたとされています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

大蔵幕府舊蹟(大蔵幕府旧跡)碑

大蔵幕府舊蹟(大蔵幕府旧跡)碑は、大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。清泉小学校の南西の角にあります。大蔵幕府とは、鎌倉幕府の中心となった場所のことですが、源頼朝時代のことで、その後は宇津宮辻幕府となっています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

法華堂跡碑

法華堂跡碑は、大正時代に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。法華堂跡(源頼朝の墓側)の入口にあります。法華堂とは、源頼朝や北条義時のお墓があった場所であり、現在は法華堂跡として国指定史跡となっています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

足利公方邸舊蹟(足利公方邸旧蹟)碑

足利公方邸舊蹟(足利公方邸旧蹟)碑は、大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。浄明寺の金沢街道から少しだけ住宅街に入ったところにひっそりとあります。足利義兼からここに居住されていたとされています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

宇津宮辻幕府舊蹟(宇都宮辻幕府旧蹟)碑

宇津宮辻幕府舊蹟(宇都宮辻幕府旧蹟)碑は、大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。宇都宮稲荷神社の境内にあります。宇津宮辻幕府とは、鎌倉幕府の中心となった場所のことですが、源頼朝時代は大蔵幕府といい、その次の時代が宇都宮辻幕府と言われていました。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

理智光寺址碑

理智光寺址碑は、昭和初期に青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。理智光寺は護良親王が墓があったとされるお寺ですが、既に廃寺となっており、理智光寺があった場所として石碑が建てられています。すぐ前には護良親王墓があります。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

畠山重忠邸址碑

畠山重忠邸址碑は、大正時代に青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鶴岡八幡宮の東側の鳥居から出るとすぐ前にあります。ふと気になって見てしまうかもしれませんが、ここに畠山 重忠という平安から鎌倉時代の武将の家があったとされることから設置された石碑です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

東御門碑

東御門旧跡碑は、大正時代に青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。荏柄天神社と白旗神社の間にあります。ふと歴史的な価値あるものかな?と気になって見てしまうかもしれませんが、ここに鎌倉幕府(大蔵幕府)の東門があったことから設置された石碑です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

西御門碑

西御門碑は、大正時代に青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。横浜国立大学 教育学部 附属鎌倉小中学校の北東側の道にあります。ふと気になって見てしまうかもしれませんが、ここに鎌倉幕府(大蔵幕府)の西門があったことから設置された石碑です。