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刃稲荷・正宗稲荷・合鎚稲荷社の由緒に関する考察

鎌倉歴史文化交流館の合鎚稲荷社跡 神社訪問・参拝レポート

鎌倉駅西口周辺に点在する刃稲荷・正宗稲荷・合鎚稲荷社は、元は同じ神社だったと言われています。

それぞれの神社及び神社跡地に訪れて参拝して思ったことや由緒に関する考察を書いていきます。

それぞれ趣のある神社なので、是非参拝して確認してください。

刃稲荷・正宗稲荷・合鎚稲荷社について

刃稲荷・正宗稲荷・合鎚稲荷社は、鎌倉駅西口にある(あった)神社です。

刃稲荷

刃稲荷

稲荷社(御成町)

正宗稲荷

合鎚稲荷社

合鎚稲荷社

合鎚稲荷社は、元々は鎌倉歴史文化交流館の敷地にあったものですが、平成25年(2013年)に葛原岡神社に遷座しました。

合鎚稲荷社は跡地となりますが、刃稲荷と正宗稲荷と合鎚稲荷社の位置関係は下記の通りです。

刃稲荷と正宗稲荷と合鎚稲荷社の位置関係

正宗稲荷と刃稲荷は、直線距離で約240メートルほどですから、3社がそれほど離れていないことがわかります。

刃稲荷・正宗稲荷・合鎚稲荷社は同じ神社か?由緒の考察

かまくら子ども風土記には刃神社の説明として下記のように書かれています。

巽神社を出てさらに80mほど北に進み、左に入るとすぐ右側に刀を造る刀工の名人として知られた五郎正宗をまつる、「正宗稲荷」ともいわれる石造の刃稲荷があります。
神社の前の左右に石造の狐が置かれ、そばの石柱にはこの稲荷社は正宗の屋敷にあり、刀に焼入れをするときに祈願した神社で、江戸時代にここに再興した。」という意味の言葉が書かれています。
この稲荷社は、鶴岡八幡宮の近くの小町置石の松尾滝右衛門が再興したといわれています。

「鎌倉駅」 の近くに、「正宗工芸」という正宗の子孫の方の刀鍛冶工房があり、その店の脇に「合槌稲荷」という神社がまつられています。

伝説ですが、正宗が父親の死後、刀を造るのに に合槌を打ってくれる人がいなくて困っていると、老人が現れて合槌を打ってくれ、 立派な刀を造ることができました、その老人は、正宗が日ごろから信仰していた稲荷の神でした。
喜んだ正宗は、自分の屋敷の中に稲荷の神をまつり、「合槌稲荷」と呼んだということです。 以後、 正宗の子孫は、必ず屋敷の中に稲荷神社をまつることになったそうです。

「刃稲荷」 「合槌稲荷」 「正宗稲荷」などと呼ばれるのも、みな一つの 神社なのかもしれません。

かまくら子ども風土記 108ページより

鎌倉歴史文化交流館にある合鎚稲荷社の説明板には下記のように書かれています。

鎌倉歴史文化交流館にある合鎚稲荷社の説明板

当館の建つこの谷戸は「無量寺谷」と呼ばれ、江戸時代には、 相州伝の刀工正宗の後裔である綱廣の屋敷があったと伝えられ ます。そしてその敷地には、刀鍛冶を守護する「刃稲荷」 が祀られていたと推測されています。

大正年間には、三菱財閥第4代当主の岩崎小弥太が、 母・早苗のための別荘を構えていました。 岩崎氏は、大正8年(1919)、 かつてここに祀られていた稲荷社を「合鎚稲荷」として復興し、 参道や鳥居、 石造神狐像や社祠を整備しました。

その後平成12年 (2000) センチュリー文化財団がこの土地を取得した後、老朽の著しかった社祠を新たに再建しました。建造にあたっては、 愛媛県松山市石手寺の重要文化財 「詞梨帝母天堂」 (鎌倉時代後期) を模して造られました。

このたび、鎌倉市への土地と建物の寄附にあたり、社祠や神狐像、 参道鳥居は、近隣の葛原岡神社へと移設され、現在も大切にお祀りされています。 高台にある稲荷社の跡地は、現在は見晴台としてご利用いただいております (雨天時は閉鎖)。

この2つは相反する内容もあるのですが、伝説も織り交ぜて時系列にすると下記のようになります。

  • 正宗の父の代には稲荷社があった(刃稲荷?1300年頃)
  • 正宗の父の死後(1300年から1320年頃か)合鎚稲荷社とする
  • 松尾滝右衛門が刃稲荷を再興する(1790年頃)
  • 岩崎小弥太が合鎚稲荷社として復興させる(1919年)

合鎚稲荷社という名称をつけたのが正宗だったのか岩崎小弥太なのか、わかりませんが、ひとまず正宗の時代から稲荷社があり、刃稲荷として存在していたと思われます。

いろいろなことを鑑み、管理人個人の私見も入れて時系列にすると

  • 1300年代:現在の鎌倉歴史文化交流館の辺りに正宗の邸宅があり、邸宅内に稲荷大明神として刃稲荷祀っていた
  • 1790年頃:松尾滝右衛門が刃稲荷を再興する
  • 1896年(明治26年):この年に発行された「相模国鎌倉名所及江之嶋全図」という地図のような絵には現在の刃稲荷の辺りに「正宗ヤシキ」「正宗稲荷」が掲載されていることから、この時点で正宗の邸宅は鎌倉歴史文化交流館から少し移動していたことが考えられ、刃稲荷(正宗稲荷)と、旧刃稲荷(正宗稲荷)の2つが存在していたと考えられる
  • 1919年(大正8年):岩崎小弥太が、廃れていた刃稲荷を合鎚稲荷社として復興させる。この時点で刃稲荷と合鎚稲荷社の2つが存在することになる
  • 昭和初期~中期:鎌倉駅周辺が開発されてきて、正宗の子孫が御成町に引越し、稲荷社(正宗稲荷)を新たに祀る。この時に3つの稲荷社が存在することになる
  • 平成25年(2013年):合鎚稲荷社が現・鎌倉歴史文化交流館の場所から葛原岡神社に遷座される

元々は政宗家の稲荷社が政宗家が引越し・移動を行ったことで3つの稲荷社が出来たと考えるのが自然な流れのように思います。

つまりこの3つの稲荷社は元は同じ稲荷社だったということになります。

神社の名称も、刃稲荷だったり正宗稲荷だったり、合鎚稲荷社だったり、伝承が重なり混ざってしまったもののようにも考えられます。

また正宗の父の死後、老人が現れて合槌を打ってくれたがその老人は稲荷神だったという伝承は、佐助稲荷神社や銭洗弁財天社に伝わる伝承を後に話を変えて作られたもののように思われます。

3つの稲荷社と稲荷社跡を参拝した感想

3つの稲荷社と合鎚稲荷社跡をすべて参拝した感想は、合鎚稲荷社跡が一番神聖で勝つ厳かな雰囲気を感じました。

鎌倉歴史文化交流館の合鎚稲荷社跡

上記の写真は、鎌倉歴史文化交流館の合鎚稲荷社跡です。この場所からの眺めが下記の写真です。

鎌倉歴史文化交流館の合鎚稲荷社跡からの眺め

遠くに海が見えます。

鎌倉歴史文化交流館の合鎚稲荷社跡

そして鎌倉歴史文化交流館の合鎚稲荷社跡の裏は岩肌が見える山です。

場所的にも一番神聖な場所のように思えました。

以上、刃稲荷・正宗稲荷・合鎚稲荷社の由緒に関する考察についてでした。

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