平景清の牢跡・景清窟(水鑑景清大居士の碑)は、鎌倉市扇ガ谷にある史跡です。
海蔵寺から化粧坂へ向かう途中にあります。住宅街の片隅に急に壊れたやぐら跡と石碑があるため、何なんだろう?と思う人も多いと思います。
平景清は、平安末期から鎌倉時代初期の武士で、ここに幽閉されていたと伝わっています。
平景清の牢跡・景清窟 詳細とアクセス方法
- 読み方:たいらのかげきよのろうあと・かげきよくつ
- 文化財区分:-(史跡)
- 管理団体:個人
- 住所:〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷4-6-3
- TEL:-
- 見学可能時間:24時間
- 見学料:無料
- 定休日:なし
- 駐車場:なし
- トイレ:なし
- 売店:なし
- 車椅子対応:なし(一般道なので普通に見られる)
- 公式サイト:なし
平景清の牢跡・景清窟へのアクセス方法・行き方
- 鎌倉駅(西口)から徒歩約16分(約1.2km)
- 北鎌倉駅から亀ヶ谷坂を経由して、徒歩約25分(約1.7km)
海蔵寺から化粧坂を経由して源氏山公園や銭洗弁財天に向かう途中にあります。
平景清の牢跡・景清窟の歴史・由緒
平景清(藤原景清・伊藤景清)が幽閉されていたところと伝わります。
それにちなみやぐらの下には江戸時代に石碑が建てられました。
近松門左衛門の浄瑠璃や歌舞伎で知られる悪七兵衛景清(平景清)は、 屋島や壇ノ浦で勇ましく戦った平家方の侍大将で、平家が滅んだあとも生きのびていました。1195年(建久6年)、奈良東大寺の大仏が完成し、 源頼朝がその開眼供養に出かけたとき、頼朝の命をねらって失敗して捕えられ、侍所の長官である別当の和田義盛に預けられました。 義盛は景清を鎌倉に連れてきて自分の屋敷に押し込めておきました。 その後、景清は八田知家に預けられると、断食して自ら命を断ったといわれています。
景清がこの岩屋にとじこめられたという話は、 景清の話が浄瑠璃などでよく知られるようになった後、世につくられた伝説と思われます。
かまくら子ども風土記 119ページより
平景清の伝承は、茨城県から宮崎県まで幅広く残っており、どれも真偽不明なものですが、それだけ有名な武士だったと言えます。
平景清の牢跡・景清窟の車椅子・障害者対応
特に車椅子対応にはなっていませんが、一般道のため車椅子でも普通に通れて見ることは出来ます。ただし坂道なので1人だとキツいかもしれません。
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