7月の後半、玉縄地域にある龍宝寺へ参拝に行ってきました。
鎌倉のお寺と言えば、北鎌倉や江ノ電沿線のお寺が有名ですが、龍宝寺は玉縄地域で一番大きな境内を持つ500年以上の歴史を持つお寺です。
夏の様子から見どころまで、写真を添えて紹介します。
龍宝寺の漢字は難しい
龍宝寺の「宝」は正式には俗字の「宝」を使っています。旧書体の「宝」と勘違いされることもありますが、異なります。
旧書体は冠下の右側が「缶」ですが、俗字は「尓」となっています。
寳が正解で、寶ではありません。
龍宝寺の扁額を見るとよくわかります。
たまたまそうなっただけでは?と思うかもしれませんが、国税庁の法人番号公表サイトで確認するとわかります。
国に登録してある名称の漢字が「寳」です。
鎌倉市のホームページでは現在の文字で「龍宝寺」としています。
龍宝寺の山門
龍宝寺の最初の見どころは、山門です。
龍宝寺は、昭和26年(1951年)にほとんどの伽藍(がらん・寺院の建物を意味する)が焼失しましたが、山門は残りました。
山門は、木造茅葺で元禄年間(1688年~1704年)頃の創建と伝わっています。
山門の扁額はまだ新しく「陽谷山」と描かれています。
山門前の右側には立派な寺号標があります。
山門の左側の手前には「龍宝寺 案内」という石碑がありました。
山門の左側にある「禁葷酒」の石碑
葷酒とは「においの強いニラ、ネギ、ニンニクなどの野菜と酒。また、それを飲食すること」という意味なので、それらのものを禁ずるということになります。
寺院の入口ではたまに見かけるものです。特に禅宗(曹洞宗等)の寺院でよく見かけます。
なお山門の横には車1台が通れるようになっており、龍宝寺の駐車場はもう少し奥にあるので、山門横を通って向かうことになります。
山門を裏側から見たところです。
龍宝寺の子育地蔵尊堂
山門をくぐってすぐ右側に大きな建物とその手前に小さな建物があります。
小さな建物が「子育地蔵尊堂」と呼ばれるものです。龍宝寺、2番目の見どころです。
銅鑼がついています。
中を覗き込むと仏像が1体鎮座しています。
これは子育地蔵と呼ばれるお地蔵様です。
子どものない人がお願いをして祈ると子を授かり、また、親がお参りすると、その子どもは病気もせずに丈夫に育つという言い伝えがあって、お参りする人が多かったといいます。
この子育地蔵はかつて白坂の上にまつられていました。
白坂は、県立大船フラワーセンター前を通り、藤沢へ行く県道が、 岡本から植木にかかるところにあった坂です。 県道ができる以前はゆるやかな坂だったといいます。
この坂は両側のけずられたがけから真白な砂 がたくさん出て、 いつも坂の上は粉をまいたよ うに白く美しかったそうです。 この坂を通る人達がいつからか「白坂」という名で呼ぶように なったということです。子育地蔵は、坂が大きな切通になったとき、龍宝寺に移されました。
かまくら子ども風土記 236ページより
子どもを授かりたい方や、お子さんがいる方は是非とも参拝したい地蔵尊ですね。
玉縄歴史館と旧石井家住宅・弁天堂
子育地蔵尊堂の後ろにある建物は「玉縄歴史館」という資料館です。
この資料館および、資料館内からしか行けない「旧石井家住宅」「弁天堂」を含めて、龍宝寺の3つ目の見どころです。
弁天堂には他には無い変わった宮彫りがあるので、是非見てください。
龍宝寺の石畳と新井白石之碑
龍宝寺の山門を抜けて参道を進みます。なおこの石は御影石ということで、廃止された都電の軌道にあったものを転用しているそうです。
参道の左側には玉縄幼稚園があります。
幼稚園が終わったところの正面あたりに「新井白石之碑」と呼ばれるところがあります。
碑なので何か刻まれていたようですが、既に文字は判別出来なくなっています。
新井白石は、江戸時代の歴史が好きな方にはおなじみですが、興味が無い人には馴染みの無い人でしょう。
Wikipediaには下記のように書かれています。
江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。
1700年前後に活躍したようです。
龍宝寺の金比羅宮
新井白石之碑から少し先に「金比羅宮」という建物があります。
中を覗いてみると…
御札が納められていました。
また金毘羅大権現の扁額も入っています。
江戸時代までは神仏習合で、お寺の中に神社があるというのは普通のことでした。
ただし明治初期の神仏分離で、お寺の場合であれば神社は取り壊されたり、お寺だったけど神社に変更したというところが鎌倉には多数あります。
鎌倉で一番有名な神社「鶴岡八幡宮」も元は「鶴岡八幡宮寺」というお寺でした。
ただお寺の中にあった神社は仏教神であることにして取り壊しを免れたところもあります。
ただこの金毘羅宮は元々が違う場所にあり移動されたものとのことです。
大船は、昔は広い沼地のような所だったようです。沼が広かったころは、 舟の渡しもあったようで、水路の安全を祈願する金比羅宮が植木の龍宝寺の西側の山に建てられていました。このお堂は強風で壊れてしまい、現在は龍宝寺境内の白石の碑の手前に小さなお堂 として残っています。
この金比羅宮には天狗の面がありましたが、村の人達が願かけをするときにこの面を持ち帰り願い事がかなうと返したそうです。 その面は、今は本堂に保管されています。
かまくら子ども風土記 236ページより
龍宝寺の福徳稲荷堂
参道に戻って進んでいくと左側にお社が見えます。
福徳稲荷堂と呼ばれる稲荷堂ですが、稲荷神社と考えて問題ありません。
実際に扁額に「稲荷神社」と描かれています。
由緒はわかりませんが、お社は天保年間(1831年~1845年)に作られたそうです。
どこかの稲荷神社が移されたのか、龍宝寺の守護として稲荷社が建てられたのか、わかりませんが、鎌倉ではお寺の中に稲荷神社・稲荷社がよくあります。
これが龍宝寺の4つ目の見どころです。
参道を先に進みます。
龍宝寺本堂と五百羅漢
龍宝寺の駐車場を越え
龍宝寺の寺務所を越えると龍宝寺の本堂です。
非常に大きく立派な本堂です。
本堂は昭和34年(1959年)に再建されたものなので、古い訳ではありませんが、貫禄がありました。
本堂には「龍寳寺」と描かれた扁額がかけられています。
戸が開いていたので、近くまでいって中を見させてもらいました。
中を見回すと…
壁の上部にずら~っと並ぶ仏像
五百羅漢です。
本堂と五百羅漢が5つ目の見どころです。
龍宝寺の玉縄北条氏供養塔(ぶっけり仏)
本堂に向かって左側に進むと「玉縄北条氏供養塔」があります。
この玉縄北条氏供養塔はぶっけり仏とも言われるもので、逸話が残っています。
龍宝寺の前身の香華院があったと伝えられる山居という場所に、宝塔が3基ありました。村の人達が通りかかると、いつも 倒れているので直しておくのですが、 またいつ のまにか倒れているというので、だれいうとなく「ぶっけり仏」とか「ぶっかえり仏」とか呼ぶようになりました。「ぶっかえる」とは 「ひっ くりかえる」 ということです。
この宝塔は、 玉縄城主であった北条綱成・氏繁・氏勝の墓供養等といわれています。 宅地造成のため、 諏訪神社の近くの山の中腹に移されましたが、今は龍宝寺の本堂の左側に移されて います。かまくら子ども風土記 236ページより
ただまだ新しいように見えるので、移した際に新しくされたのかもしれませんね。
ここが龍宝寺の6つ目の見どころです。
龍宝寺の寺務所のお地蔵様と御朱印
本堂から少し降りてきたところに寺務所があります。御朱印をいただく場合は、インターホンを押して対応してもらいます。
御朱印はお昼12時から12時40分までは対応しないと書かれているので、注意して下さい。
御朱印はどういう種類があるか寺務所内に見本が置かれていました。
御朱印をお願いして待っている間に見回すと可愛らしいお地蔵様が置かれていました。
見ていると心が和むお地蔵様です。
夏ならではの龍宝寺
龍宝寺は三方を山に囲まれているため、夏場は濃い緑で囲まれています。
7月から8月にかけてはムクゲの花が咲いてとても綺麗に見えます。
晴れた日なら青空とムクゲの花の写真を綺麗に撮ることが出来ます。
紫がかったピンクのムクゲも咲いていました。
夏に訪れた時は、このムクゲの花が龍宝寺7つ目の見どころです。
是非、夏の龍宝寺に訪れてくださいね。
以上、夏の龍宝寺への参拝参拝レポートでした。
- 住所:〒247-0073 神奈川県鎌倉市植木129
- TEL:0467-46-2807
- 御朱印:あり
- 写経:あり
- 参拝可能時間:日の出から日の入りまで
- 寺務所受付時間:概ね9:00~17:00
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