畠山重保邸阯碑は、大正時代に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。
鶴岡八幡宮の一ノ鳥居のすぐ横に石造宝篋印塔(畠山重保墓塔)と一緒に建っています。
畠山 重保は鎌倉時代初期の武将であり、父は畠山重忠です。
父・畠山重忠邸阯碑は、鶴岡八幡宮の東の鳥居前にあります。
畠山重保邸阯碑 詳細とアクセス方法
- 読み方:はたけやま(の)しげやすていあとひ
- 文化財区分:なし(旧跡碑)
- 住所:〒248-0014 神奈川県鎌倉市由比ガ浜2-14
- 建立:1922年(大正11年)3月
- TEL:-
- 見学可能時間:24時間
- 見学料:無料
- 定休日:なし
- 駐車場:なし
畠山重保邸阯碑へのアクセス方法・行き方
- 鎌倉駅東口から徒歩約9分(約700メートル)
- 江ノ電「和田塚駅」から徒歩約5分(約400メートル)
鎌倉駅から歩いていくのがおすすめです。和田塚駅からだと非常に細い道を歩くため、わかりにくくなっています。
畠山重保邸阯碑の写真と碑文と意味
畠山重保ハ重忠ノ長子ナルガ
甞テ北條時政ノ婿
平賀朝雅ト忿争ス
朝雅其ノ餘怨ヲ蓄ヘ重保父子ヲ時政ニ讒ス
時政モト重忠ガ頼朝ノ薨後其ノ遺言ニ依リ頼家ヲ保護スルヲ見テ
之ヲ忌ミ事ニ依リテ之ヲ除カント欲ス
乃チ實朝ノ命ヲ以テ兵ヲ遣シテ重保ノ邸ヲ圍ム
重保奮闘之ニ死ス
時ニ元久二年六月二十二日
此ノ地即チ其ノ邸址ナリ
其ノ翌重忠亦偽リ誘ハレテ武蔵國二俣川ニ闘死ス
管理人訳 畠山重保は、畠山重忠の長男です。
しかし、かつて北条時政の婿である平賀朝雅と争いました(畠山重保の母は、北条時政の娘)。
平賀朝雅はその時の恨みから重安親子を北条時政によって陥れるため、ありもしないことを告げました。
北条時政は元々、畠山重保が源頼朝の死後、その遺言によって源頼家を保護するのをみて、なにかにつけて討とうと思っていました。
そこで北条時政は源実朝の命令として、兵を出して畠山重保の邸宅を囲ませました。
畠山重保は奮闘しましたが、殺されてしまいました。
これが元久2年(1205年)6月20日のことです。
この場所は、その畠山重保の邸宅の跡です。
その翌日に父の畠山重忠も偽りによって誘い出され、武蔵国(現在の横浜市)の二俣川で戦死しました。
しかし、かつて北条時政の婿である平賀朝雅と争いました(畠山重保の母は、北条時政の娘)。
平賀朝雅はその時の恨みから重安親子を北条時政によって陥れるため、ありもしないことを告げました。
北条時政は元々、畠山重保が源頼朝の死後、その遺言によって源頼家を保護するのをみて、なにかにつけて討とうと思っていました。
そこで北条時政は源実朝の命令として、兵を出して畠山重保の邸宅を囲ませました。
畠山重保は奮闘しましたが、殺されてしまいました。
これが元久2年(1205年)6月20日のことです。
この場所は、その畠山重保の邸宅の跡です。
その翌日に父の畠山重忠も偽りによって誘い出され、武蔵国(現在の横浜市)の二俣川で戦死しました。
なんかドロドロした人間関係があったように思います。
上記写真の左側に畠山重保邸阯碑がありますが、右に見える鳥居が鶴岡八幡宮の一ノ鳥居です。
碑の横には、鎌倉市指定有形文化財の石造宝篋印塔(畠山重保墓塔)が建っています。
畠山重保邸阯碑付近の観光スポット
- 鶴岡八幡宮 一ノ鳥居
- 由比ヶ浜
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