上杉朝宗及氏憲邸阯碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。
杉本寺近くのT字路から奥に入ったところに建っています。
上杉朝宗は、1400年前後の武将・守護大名であり、上杉氏憲はその子です。
上杉朝宗及氏憲邸阯碑 詳細とアクセス方法
- 読み方:うえすぎともむね および うじのり ていあとひ
- 文化財区分:なし(旧跡碑)
- 住所:〒248-0003 神奈川県鎌倉市浄明寺1-10-3
- 建立:1935年(昭和10年)3月
- TEL:-
- 見学可能時間:24時間
- 見学料:無料
- 定休日:なし
- 駐車場:なし
上杉朝宗及氏憲邸阯碑へのアクセス方法・行き方
- 鎌倉駅から徒歩約30分(約2km)
- 鎌倉駅から京急バス「鎌23・24・36」系統に乗車、「杉本観音」下車・徒歩約3分
鎌倉駅からは距離があるため、鎌倉駅からバスに乗って向かうのがおすすめです。
上杉朝宗及氏憲邸阯碑の写真と碑文と意味
朝宗ハ足利氏満満兼ニ歴任シ
入道シテ襌助ト號ス、
人稱シテ犬懸ノ管領トイフ
其子氏憲嗣デ持氏ノ執事トナリ入道シテ襌秀ト號ス、
然ルニ後持氏ト隙アリ
應永廿三年氏憲ハ持氏ノ叔父満隆等ト謀リ満仲ヲ奉ジテ兵ヲ起セシモ遂ニ敗レ
翌年正月一味ト共ニ雪ノ下ノ鶴岡別當坊ニ自盡ス
此所ハ即チ其邸ナリ
管理人訳
上杉朝宗は、足利氏満・満兼に仕え、出家してからは禅助と名乗りました。
当時の人は、犬懸の管領(将軍に次ぐ役職)と言いました。その子の氏憲が跡を継いで足利持氏の許で執事として仕え、 出家してからは名前を禅秀と名乗りました。
しかし、足利持氏と対立するようになり応永23年(1416年)に、氏憲は持氏の叔父(おじ)の満隆(みつたか)と共に計略して、足利満仲も味方につけ戦いましたが破れました。
翌年(1417年)1月に、一味と共に雪ノ下の鶴岡別当坊にて自害しました。
ここはその屋敷があった場所です。
上杉朝宗は、足利氏満・満兼に仕え、出家してからは禅助と名乗りました。
当時の人は、犬懸の管領(将軍に次ぐ役職)と言いました。その子の氏憲が跡を継いで足利持氏の許で執事として仕え、 出家してからは名前を禅秀と名乗りました。
しかし、足利持氏と対立するようになり応永23年(1416年)に、氏憲は持氏の叔父(おじ)の満隆(みつたか)と共に計略して、足利満仲も味方につけ戦いましたが破れました。
翌年(1417年)1月に、一味と共に雪ノ下の鶴岡別当坊にて自害しました。
ここはその屋敷があった場所です。
簡単に言えば、上杉朝宗および、子の上杉氏憲の邸宅があった場所で、どういうことがあったのか書かれている石碑です。
現在は碑があるだけで、当時の建物や風情は全く残っていません。
小さな交差点の片隅に石碑は置かれています。なおこの碑が建っている前の道を「田楽辻子のみち」と言います。
地元民以外は、報国寺に訪れて徒歩で鎌倉駅方面に向かう時に裏道で帰ろうと思う人しか通らない道です。
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