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二階堂・十二所エリア

鎌倉のその他の史跡

お塔の窪やぐら群

お塔の窪やぐら群は、鎌倉市二階堂にある北条高時を供養すると伝わるやぐらを含む史跡です。住所的には二階堂になっていますが、十二所側から向かうことになります。天園ハイキングコースにも繋がりますが、あまり通る人も多くはなく、やや荒れた登山道となっています。
鎌倉のその他の史跡

石切り場跡(衣張山中腹)

石切り場跡は、鎌倉市浄明寺の衣張山の中腹にある鎌倉石を切り出していた跡です。杉本寺近くの衣張山への登山道の途中にあり、一瞬やぐらかな?と思いますが入口近くに「石切り場跡」と書かれています。いつ頃、利用されていたのかは不明ですが、不思議な雰囲気が漂う場所です。
鎌倉五名水

梶原太刀洗水

梶原太刀洗水は、鎌倉市十二所にある伝承が残る湧き水です。鎌倉五名水と呼ばれる鎌倉を代表する5つの名水(美味しい水)の1つです。朝夷奈切通の鎌倉側の入口に近いところにありますが、夏場になると草木に覆われ気づかないことも多くなります。
神奈川県・鎌倉市指定史跡

百八やぐら

百八やぐら(百八やぐら群)は、天園ハイキングコースの覚園寺分岐から覚園寺方面で少し降りていった辺りにあるやぐら群です。一般的なハイキングコースだけだと4つほどのやぐらしか見えませんが、上部に行くとかなり広範囲で多数のやぐらが連なっています。鎌倉市内で最大規模のやぐら群です。
鎌倉のその他の史跡

朱垂木やぐら

朱垂木やぐらは、天園ハイキングコースの十王岩の近くから少し外れたところにあるやぐら及びやぐら群です。一般的なハイキングコースでは無いため、ほとんど人が来ない場所ですが、50ほどのやぐらがあり、鎌倉らしい景観を描いています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

青砥藤綱邸舊蹟碑(青砥藤綱邸旧蹟碑)

青砥藤綱邸舊蹟碑(青砥藤綱邸旧蹟碑)は、大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。鎌倉市浄明寺の金沢街道に沿った滑川の「青砥橋」から少し入ったところに建っています。青砥藤綱は、鎌倉時代後期の武士で、いろいろな伝承が残っています。
鎌倉のその他の史跡

大江広元の墓(伝承・浄明寺・十二所の境)

大江広元の墓は、一般的には鎌倉市西御門にある法華堂の中にあるものとされますが、これは後世に作られたものであり、本当のお墓は浄明寺・十二所の境あたりの胡桃山と呼ばれる山中にあるものと伝わっています。登山道の途中にあり、訪れるのは少し大変なところにあります。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

大江廣元邸址碑(大江広元邸跡碑)

大江廣元邸址碑(大江広元邸跡碑)は、大正時代に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。ミニストップのある明石橋から路地に入ったところに建っています。大江広元は、「鎌倉殿の13人」の1人であり、鎌倉幕府の政所初代別当を務めた人物です。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

上杉朝宗及氏憲邸阯碑

上杉朝宗及氏憲邸阯碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。杉本寺近くのT字路から奥に入ったところに建っています。上杉朝宗は、1400年前後の武将・守護大名であり、上杉氏憲はその子です。
鎌倉の国の登録有形文化財

旧華頂宮邸

旧華頂宮邸は、昭和4年(1929年)に建てられた洋館(洋風建築物)です。イギリス調に見える庭園と重厚な雰囲気のある建物は非常に美しくドラマ等の撮影でも使われています。鎌倉市の景観重要建築物等および国の登録有形文化財に指定されています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

大慈寺跡碑

大慈寺跡碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。金沢街道の明石橋付近から少し奥に入ったところに建っています。大慈寺は、源実朝が建立したと言われるお寺ですが、建立はわかっているもののいつ廃寺となったのかわかっていません。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

朝夷奈切通碑

朝夷奈切通碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。朝夷奈切通の鎌倉市十二所側入口の三郎の滝(朝比奈の滝)の脇に建っています。朝夷奈切通は鎌倉時代に作られた峠道であり国指定史跡にもなっています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

永福寺舊蹟碑(永福寺旧跡碑)

永福寺舊蹟碑(永福寺旧跡碑)は、大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。永福寺跡の東南側の入口に建っています。永福寺はかつて鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つでしたが15世紀初頭に廃絶し、2007年以降に基壇(基礎)が復元され、観光地となっています。
鎌倉の国指定史跡

永福寺跡

永福寺跡は、鎌倉市二階堂にある国指定史跡です。永福寺は12世紀後半に作られた寺院でしたが、15世紀初頭に火災の後廃絶しましたが、2007年以降に復元が開始され、基壇(基礎)と苑池が復元されました。現在は若干の観光者が来るものの、平日は近隣の方が集う公園のようになっています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

歌之橋碑

歌之橋碑(歌の橋碑)は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。金沢街道沿い、杉本寺から鎌倉駅方面に少し進んだところにあります。渋川兼守という武士が和歌を詠んだことに関連して作られた橋のため「歌之橋(歌の橋)」とされています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

荏柄天神碑

荏柄天神碑は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。荏柄天神社の一の鳥居と重なり合う松の木との間に木々で少し見えにくくなっていますが、建てられています。荏柄天神社の由緒に関することが記されています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

足利公方邸舊蹟(足利公方邸旧蹟)碑

足利公方邸舊蹟(足利公方邸旧蹟)碑は、大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。浄明寺の金沢街道から少しだけ住宅街に入ったところにひっそりとあります。足利義兼からここに居住されていたとされています。
鎌倉の国指定重要文化財

一条恵観山荘

一条恵観山荘は、鎌倉市浄明寺にある国指定の重要文化財にもなっている建物で、庭園やカフェもあり、土日ともなると多くの人が訪れます。初夏には紫陽花、秋には紅葉が美しくゆったりとした時間が流れる大人のための観光名所となっています。
鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

理智光寺址碑

理智光寺址碑は、昭和初期に青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。理智光寺は護良親王が墓があったとされるお寺ですが、既に廃寺となっており、理智光寺があった場所として石碑が建てられています。すぐ前には護良親王墓があります。
鎌倉のその他の史跡

護良親王墓

護良親王墓は、鎌倉市二階堂にある後醍醐天皇の第三皇子とされる鎌倉時代末期から建武の新政期の皇族・僧侶・武将・天台座主・征夷大将軍だった護良親王のお墓です。お墓そのものは一般開放されておらず直接見ることは出来ないようになっています。