稲瀬川碑は、大正時代に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。
国道134号線沿い、江ノ電「長谷駅」に近い由比ガ浜沿いに建っています。
稲瀬川は、鎌倉時代には鎌倉の西の境界線とされていた川ですが、現在は多くが暗渠(目には見えない地下にある川や水路)になっています。
碑の後ろには由比ガ浜があり、景色の良い場所です。
稲瀬川碑 詳細とアクセス方法
- 読み方:いなせがわひ
- 文化財区分:なし(旧跡碑)
- 住所:〒248-0016 神奈川県鎌倉市長谷2
- 建立:1923年(大正12年)3月
- TEL:-
- 見学可能時間:24時間
- 見学料:無料
- 定休日:なし
- 駐車場:なし
稲瀬川碑へのアクセス方法・行き方
- 江ノ電「長谷駅」から徒歩約5分(約350メートル)
近くにバス停はあるものの、ほとんどバスは停まらないため江ノ電で来るのがおすすめです。
また夏や土日を中心に渋滞をするエリアのため、車で来られることはおすすめしません。
稲瀬川碑の写真と碑文と意味
萬葉ニ鎌倉ノ美奈能瀬河トアルハ此ノ河ナリ
治承四年十月政子鎌倉ニ入ラントシテ來リ
日並ノ都合ヨリ數日ノ間此ノ河邊ノ民家ニ逗留セル事アリ
頼朝ガ元暦九年範頼ノ出陣ヲ見送リタルモ
正治元年義頼ノ遺骨ヲ出迎ヘタルモ共ニ此ノ川邊ナリ
元弘三年義貞ガ當手ノ大将大舘宗氏ノ此ノ川邊ニ於テ討死セルモ人ノ知ル所
細キ流ニモ之ニ結バル物語少ナカラザルナリ
管理人訳
万葉集の中に「鎌倉の美奈能瀬河」と書かれているのはこの川のことです。
治承4年10月(1180年) 北条政子(源頼朝の妻)が、鎌倉入りの時、よいお日柄に合わせるため、数日の間この川辺の民家に滞在しました。
頼朝は、元歴9年(1184年)に源範頼(源頼朝の弟)が出陣するのを見送ったり、正治元年(1185年)に源義朝(源頼朝の父)の遺骨を出迎えたのも共にこの川辺です。
元弘3年(1333年)に新田義貞の軍の大将・大舘宗氏が、この川辺にて討死したこともよく知られています。
稲瀬川の流れは細いですが、物語は少なくありません。
万葉集の中に「鎌倉の美奈能瀬河」と書かれているのはこの川のことです。
治承4年10月(1180年) 北条政子(源頼朝の妻)が、鎌倉入りの時、よいお日柄に合わせるため、数日の間この川辺の民家に滞在しました。
頼朝は、元歴9年(1184年)に源範頼(源頼朝の弟)が出陣するのを見送ったり、正治元年(1185年)に源義朝(源頼朝の父)の遺骨を出迎えたのも共にこの川辺です。
元弘3年(1333年)に新田義貞の軍の大将・大舘宗氏が、この川辺にて討死したこともよく知られています。
稲瀬川の流れは細いですが、物語は少なくありません。
昔の鎌倉の西側はこの川だったこともあり、多くの物語が残っているそうです。
稲瀬川碑のすぐ横には稲瀬川の河口がありますが、河口しか無いと言った方が良い状態で、現在、この河口以外の部分は、ほぼ暗渠となっています。
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