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二十五坊舊蹟碑(二十五坊旧蹟碑)

二十五坊舊蹟碑(二十五坊旧蹟碑) 鎌倉 旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

二十五坊舊蹟碑(二十五坊旧蹟碑)は、大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。

鶴岡八幡宮から北鎌倉方面へと向かう途中にある鶴岡文庫近くに建っています。

鶴岡八幡宮に関連する施設があった場所を示す石碑です。

二十五坊舊蹟碑 詳細とアクセス方法

二十五坊舊蹟碑(二十五坊旧蹟碑)

  • 読み方:にじゅうごぼうきゅうせきひ
  • 文化財区分:なし(旧跡碑)
  • 住所:〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下2-14
  • 建立:1918年(大正7年)3月
  • TEL:-
  • 見学可能時間:24時間
  • 見学料:無料
  • 定休日:なし
  • 駐車場:なし

二十五坊舊蹟碑へのアクセス方法・行き方

  • 鎌倉駅東口から徒歩約15分(約1.1km)

駐車場が無いため公共交通機関で訪れることをおすすめします。鶴岡八幡宮の上宮からは徒歩5分もかからないくらいです。

二十五坊舊蹟碑の写真と碑文と意味

二十五坊旧蹟碑

二十五坊旧蹟碑

此ノ地ハ頼朝時代以来
八幡宮供僧ノ僧舎二十五坊及ビ別當坊ノ置カレシ處ナリ
彼ノ別當公暁ガ實朝ノ首ヲ手ニシテ潜ミタル
後見備中阿闍梨ノ宅モ亦此ノ地二在リタルナリ
應永中院宣ニヨリ坊ノ稱ヲ院ト改ム戦國ノ世ニ至リ
鎌倉管領ノ衰微ト共ニ各院次第ニ廢絶シ
天正ノ末ニ於テハ
僅ニ七院ヲ存セルノミ
文禄中徳川家康五院ヲ再興シテ十二院トナセルガ
明治維新後遂ニ全ク廢墟トナレリ

管理人訳

この場所は源頼朝の時代以降、鶴岡八幡宮の僧侶が住む二十五坊および僧官が住む別当坊があった場所でした。
かの別当公暁が源実朝を殺して潜んだ場所でもあります。
後見の備中阿闍梨の邸宅もこの地にありました。

応永年間(1384~1428年)に、院宣(院司が法皇もしくは上皇の命を奉じて出す文書)によって坊を院と呼ぶようになります。
戦国時代になり、鎌倉管領が衰えると多くの院が廃絶していきました。
天正年間(1573~1592年)の終わり頃にはわずかに7院のみが残っていました。
文禄年間(1592~1596年)に、徳川家康が5院を再興して12院になりますが、明治維新の神仏分離によりすべての院は廃墟となりました。

鶴岡八幡宮なのに僧侶・僧官が住むということに違和感があるかもしれませんが、江戸時代まで鶴岡八幡宮は鶴岡八幡宮寺といって、神仏習合のお寺でした。

そのため神職ではなく僧が鶴岡八幡宮を管理維持していました。

二十五坊舊蹟碑(二十五坊旧蹟碑)

左側に二十五坊旧蹟碑がありますが中央より右側に石垣がうっすらと見えると思いますが、そこが現在の鶴岡八幡宮の駐車場のあるところで、その奥が鶴岡八幡宮の駐車場側入口となっています。

二十五坊舊蹟碑(二十五坊旧蹟碑)

この石碑の左側の道は行き止まりですが、ここから少し進んだところに鶴岡八幡宮境内保存計画の見直しの記念碑が建っています。

二十五坊舊蹟碑付近の観光スポット

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