義経宿陣之趾碑(義経宿陣之阯碑)は、昭和初期に鎌倉町青年団によって建てられた史跡碑・旧跡碑です。
腰越の満福寺・山門前に建っています。
源義経が源頼朝に鎌倉入りを許されず満福寺に滞在し、腰越状を書いた場所とされている跡地として紹介しています。
義経宿陣之趾碑 詳細とアクセス方法
- 読み方:よしつね しゅくじんのあとひ
- 文化財区分:なし(旧跡碑)
- 住所:〒248-0033 神奈川県鎌倉市腰越2-4(満福寺境内)
- 建立:1941年(昭和16年)3月
- TEL:-
- 見学可能時間:24時間
- 見学料:無料
- 定休日:なし
- 駐車場:なし
義経宿陣之趾碑へのアクセス方法・行き方
- 江ノ電「腰越駅」から徒歩約3分(約250メートル)
道が狭いので公共交通機関で訪れるのがおすすめです。
義経宿陣之趾碑の写真と碑文と意味
文治元年(皇紀一八四五年) 五月
源義経朝敵ヲ平ラゲ
降将前内府平宗盛ヲ捕虜トシテ相具シ凱旋セシニ
頼朝ノ不審ヲ蒙リ
鎌倉二入ルコトヲ許サレズ
腰越ノ駅二滞在シ
鬱憤ノ餘
因幡前司大江廣元ニ付シテ一通ノ歎状ヲ呈セシコト
東鑑ニ見ユ
世ニ言フ腰越状ハ即チコレニシテ
其ノ下書ト傳ヘラルルモノ満福寺二存ス
管理人訳
文治元年(皇暦1845年・西暦1185年)5月、源義経(みなもとのよしつね)は、平家と戦って、平宗盛を捕虜にし、鎌倉に凱旋しようとしましたが、頼朝は義経の事を不審に思い、鎌倉に入ることを許しませんでした。
そのため腰越に滞在しました。この時、無念のあまり、一通の嘆願書にして、大江広元に渡したことが、吾妻鏡に書かれています。
これが世に言う「腰越状」で、その下書きといわれるものがここの満福寺に残っています。
碑は上記写真、満福寺の山門の右側石灯籠の後ろに建っています。
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