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稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地)

稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地) 鎌倉の国指定史跡

稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地)は、鎌倉市稲村ヶ崎にある国指定史跡です。

鎌倉幕府の滅亡となる稲村ヶ崎突破となる軍を率いた新田義貞が稲村ヶ崎の海を割り渡ったという伝承が残る場所として、史跡に選定されています。

史跡としても有名ですが、富士山と江ノ島を見渡せる絶景スポットとしても人気です。

稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地) 詳細とアクセス方法

  • 読み方:いなむらがさき(にったよしさだとしょうでんせつち)
  • 文化財区分:国指定史跡
  • 管理団体:鎌倉市
  • 住所:〒248-0024 神奈川県鎌倉市稲村ガ崎2-6-19
  • TEL:0467-61-3857(鎌倉市教育文化財部文化財課)
  • 見学可能時間:24時間
  • 見学料:無料
  • 定休日:なし
  • 駐車場:なし
  • トイレ:あり
  • 売店:なし
  • 車椅子対応:なし(一部対応)
  • 公式サイト:なし

稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地)へのアクセス方法・行き方

  • 江ノ電「稲村ヶ崎駅」から徒歩やく7分(約500メートル)

駐車場が無いため公共交通機関で向かうことをおすすめします。またはシェアサイクルで向かうのがおすすめです。

稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地)の歴史・由緒

稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地)ついて、鎌倉子ども風土記には下記のように書かれています。

鎌倉時代に「鎌倉の西の境」 とみられたように霊仙山から稲村ヶ崎ま での一連の山が鎌倉への通行をさえぎり、岬の下の砂の上に小道がわずかに通れる程度であったようです。『太平記』 によれば、 新田義貞は極楽寺坂からの鎌倉攻めは無理だと判断して稲村ヶ崎を回って海岸伝いに進もうとしましたが、道はなく海上には大きな船が横矢を射ようと構えていました。 義貞は武士達を集めて岬の上に立ち、事の成功を海神に祈り、山国育ちの武士が見守る中、黄金作りの太刀をささげて海中に投げ入れました。すると、その夜、潮がみるみる引き始め、北条方の船は沖に押し出され、干潟が現れてきました。武士たちは海の神が味方したと喜び、 元気をとり戻し、 ときの声をあげて海岸から鎌倉に攻め込んだそうです。 『太平記』と対照的な立場で書かれたといわれる『 梅松論』 にもこのことは書かれていますので潮が引いた のは事実でしょう。

しかし、この説には異論を唱える人も多く、 実際には霊仙山の仏法寺の北条陣を新田軍が攻 め落とし、一気に鎌倉に攻め込んだという説もあります。どちらの説にしても鎌倉の守りは、ここ西南からも崩れ、鎌倉幕府滅亡を決定的にしました。 1333年(元弘3年) 5月22日のことです。

かまくら子ども風土記 166ページより

太刀を海に投げ込んで、潮がみるみると引き始めるということはありえないため、いろいろな説があります。

  • 干潮であった5月18日の日付の間違いという説
  • 実際には干潟ではなく山道を通ったという説
  • 東風が吹き、風の影響で潮が引いたような状態になったという説
  • 突発的な地殻変動や地震といった自然現象が起こったという説

ただ今となってはどれが事実だったのかは、わかりません。

しかし稲村ヶ崎付近から新田軍に侵入され、鎌倉幕府が滅亡することになったことは現時点では確かだとされています。

稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地)の車椅子・障害者対応

砂利道を通りますが、車椅子でも景色の良い場所まで行くことは介助者がいれば可能です。

稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地) 訪問レポート

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