化粧坂は、鎌倉を代表する7つの切通「鎌倉七口」の1つです。
現在は源氏山公園の一画にあり、海蔵寺方面から源氏山に向かう時の道にもなっています。
国指定史跡にもなっていますが、その際の名称は「仮粧坂」で登録されています。また最後に切通をつけて「化粧坂切通」という場合もあります。
なお切通というよりは、荒れた急な登山道のような雰囲気になっています。
化粧坂の詳細とアクセス方法
- 読み方:けわいざか
- 文化財登録:国指定史跡
- おおよその住所:〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷4-14
- 管理団体:鎌倉市
- TEL:0467-61-3857(鎌倉市文化財課)
- 見学可能時間:24時間(夜は非常に危険)
- 見学料(入場料):なし
- 定休日:なし
- 駐車場:なし
- トイレ:坂の上から少し先に源氏山公園のトイレあり
- 車椅子対応:なし
- 公式サイト:なし
化粧坂へのアクセス方法(始点)
始点側は説明板があるところとしています。
- 鎌倉駅から徒歩約27分(約1.6km・半分近く上り坂)
- 北鎌倉駅から徒歩約30分(約1.7km・半分以上は上り坂)
- 鎌倉駅西口から京急バス「鎌51」系統もしくは江ノ電バス「K1・K6」系統に乗車、「法務局前」バス停下車、徒歩約18分(約900メートル・半分以上は上り坂)
- 大船駅東口から京急バス「船50」系統に乗車、「源氏山入口」下車、徒歩約12分(約650メートル・半分以上は上り坂と階段)
鎌倉駅から銭洗弁財天を経由して向かうのがおすすめです。
地図上では公衆電話となっていますが、ここから30メートルほど先に化粧坂の説明板が設置されています。
こちら側からだと化粧坂は下りになります。
化粧坂へのアクセス方法(終点)
- 鎌倉駅(西口)から徒歩やく20分(約1.5km)
化粧坂碑が現在の化粧坂の入口近くになっています。
化粧坂の歴史・由緒
仮粧坂は、鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「鎌倉往還上ノ道」 (武蔵路) の出入り口に当たります。 鎌倉の交通の要衝であったことから、元弘3年(1333) の 新田義貞の鎌倉攻めでも戦場となっています。
『吾妻鏡』建長3年(1251) 12月3日条には、鎌倉の中で小町屋及び売買所を構えても良い場所の一つとして「気和飛坂山上 (仮粧坂の山上)」と書かれています。坂頂上部は葛原岡とも呼ばれ、元弘2年 (1332) 後醍醐天皇の倒幕計画に関わった日野俊基が斬首された刑場でもありました。指定地内北側には地蔵像や五輪塔などの浮彫りをもつ特徴的なやぐら群(瓜ヶ谷やぐら群) があります。 また周辺の発掘調査では多数の火葬跡が発見されており、仮粧坂が交通の要衝である と同時に、 都市鎌倉の境界に位置する葬送の地であったことが明らかになっています。
説明板には上記のように書かれています。
景清の牢跡から 200mほ ど行くと、坂道が急坂になる手前右側に、「化粧坂」の史跡案内の石碑が立っています。 この仮粧坂は鎌倉七切通の一つで、今も昔の面影を残し、国の史跡になっています。
この坂の名の起こりについては、平家の大将の首をここで化粧して首実検したことからその 名が付いたとか、また、この坂のあたりに町家 があって化粧した女達がいたからとか、木がよく生い繁っていたので木生えとか、気勢(気生・形勢)と呼ばれたことからきているともいわれます。
この険しい坂道は、藤沢から武蔵方面に通ずる重要な道で、 新田義貞が 1333年(元弘3年) 5月、鎌倉攻めのとき、この仮粧坂に軍の主力を向けたので、 激戦地になりました。
鎌倉時代には、「気和飛坂」という名で商業地域の一つとされていました。
この仮粧坂を上ると源氏山公園になります。 源氏山公園から梶原に抜ける道が柏尾川を越え て武蔵国へ続く鎌倉街道上ノ道につながります。 源氏山公園では、佐助から上ってくる大坂とつながっています。
かまくら子ども風土記 119ページより
化粧坂という名称はいろいろな説があり、どの説も確定的なものはありません。
いつころ出来たものかは不明ですが、鎌倉幕府が出来た当時には既にあったものと考えられています。
化粧坂の訪問レポートと関連リンク
化粧坂に訪れた時のレポートおよび関連リンクです。
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